「二次元」という妄想

「二次元」という妄想

たまに、「二次元」、「二次元」って、いかに自分が「二次元」を愛してるかを強調する人がいる。
だけど、実際、あなたの愛しているのは三次元を撮影したり三次元の写し絵なわけで、純粋に二次元を愛しているわけではないのでは? って思う。
こういう人にマクラーレンのダイレクトペインティングやカリグラフィの話をしても??ってされる。
往々にしてこういう人が言う「二次元」って、それは偶々目にして好きになった作品を「二次元」としてしかとらえられないだけなんじゃないか? と感じる。具象アニメ、特に美少女など現実の存在をアニメ的にとらえた作品などである。
アニメについて言えば、結局二次元とはTVアニメの事であって、そのうちの、おそらく日本の商業アニメしか知らない人は、例えばドイツの抽象アニメ等の様に本気で二次元での表現の可能性を追求し破滅した人々の事も知らないだろうし、そこまで考えていないと思う。
2002年から始まった萌えブームで、電波男などで有名になった、作家の本田透は解脱して二次元に生きることを説いた。
しかし、その後、柳下毅一郎との対談で「二次元のキャラはご飯も炊いてくれない、世話もしてくれない」と語っていたが、二次元に最後までこだわったわけではなかった。
おそらく彼はネタで言っていたんだろうと思う。
しかし、それをネタとして理解できず、「二次元」といえば世界観やキャラくらいしか想像の及ばぬ人が、中途半端に受け入れたのではないだろうか。
アニメにしても、フィルムに素材を撮影したものだと理解しているのだろうか? 「二次元」という人のうちどれくらいが、例えば透過光の撮影ってどうやってしているのか知ってるのだろう? アニメにしても三次元を撮影した結果に過ぎない(デジタル化以後だって撮影をデジタル化している訳で、素材を合成することに変わりはないし、素材はあくまで三次元を模したものである)。
まあね、流動背景みたいな例もあるけど、これは前景の人物がいるから効果があるのである。
あと純粋に「二次元」なんて、常人には想像つかないはずである。
だって二次元で暮らした人なんていないから。
それに、あくまで3次元での経験や体験があるからこそ、「二次元」の作品に対し存在感を感じられるのだから。
純粋に3次元の体験を排したものに、いったいどれくらいの人が理解できるのか。
実際に、先の抽象アニメはアメリカでは興業失敗したらしいし。
漫画だって、三次元としての本をめくるという動作を組み込んで作られている。日本なら縦書きで右とじの本をどうやって読むか、考えて描かれている。読者が三次元の存在であることを前提にした作品が、いったいどうして、「二次元」なのだろうか?
ゲームは、もっと三次元的である。というのも、操作系は、どんなプラットフォームでも最も重要な要素であり、実際にゲームを操作する人の事を考えて設計されている、ただ目にする表現がモニターという「二次元」なだけで、ゲームをするという体験は間違いなく、三次元での体験。これに気づいていない人は、作り手が親切設計で操作を感じないくらい快適にゲーム自体を設計しているから。要は、人の掌の上で踊らされているのである。
映画にしても、劇場や客席により、見る環境は規定されるし、大勢で鑑賞する楽しみが、映画館にはある。そこで純粋に、二次元のフィルムの照射だけを目当てに劇場に通う人っているの?
また、DVDや本、フィギュア、その他のアイテムを欲しがるのは、これも世俗的な欲望である、モノを所有したいという形。2.5次元なんて言葉がはやったが、これらって明らかに三次元だよ!

以上のように二次元大好きを自称する人が好むコンテンツは明らかに三次元での経験や体験なのに、どうして、自分が二次元好きだなどと、思えてしまうのか? 自分にはちょっと理解できないのでした。