ところで何で俺はブログをだらだらと続けているのか。

じゃあ何で俺はブログをだらだらと続けているのか。
結論から言えば、俺は此処にいるという事を何となく発信したい、という欲望が、自分にもかすかに残っているからです。
学生時代の様に年齢や育成環境が似たような人とばかり付き合っている時期であれば、ブログも目に見える仲間に発信している人も大勢いると思うのです。むしろ、数行のエントリーでも見てくれる人の顔が見えれば、それはそれで楽しいと思います。自分も学生時代にこういうツールがあったら、顔の見える人に向けての文章を身内受けで書いていたと思います。まあ、そういうツールはブログ以外に沢山あるわけで、人によってはそういう仲間受けのツールが大嫌いな人もいるみたいですけど、そんなにキライに思うほどキにする事なのか自分は分からないのですけど。
ただ、会社員として、不特定多数に情報を発信する仕事ではない職業についていると、生活の糧であり生活の時間の殆どを占める仕事の関係のなかで色々なものが回って閉じている感じなのです。どんな仕事でも情報発信が出来ないわけではないのです。仕事では、人間関係も、利害関係も、信頼関係も、仲間意識も、仕事を基点にしています。その中で行われる情報発信というのは、アタリマエですが、仕事を基点にしていないものはありえないわけですよ。コミュニケーションの予備情報として、個人の背景を把握することはあっても、仕事じゃなければ、大多数の人は、他人に興味なんか抱かないですよ。むしろ、そこで関心を持てる人の信頼が強くなるとかいうことは有りますけど。でもなー、仕事の一部として会話したりするのに辛さを感じる人って多いような気がします。そんななかで、結局自分の存在って、仕事の中に埋没しているわけですよ。そんな中で自分の存在感を出せる人は、いますけれども、組織のなかで突出できても、それは組織の一部でしかないのではと思うわけです。業界新聞などで、某社の社長は何々通で知られるとか記事になってたりするのを見かけることもあるけども、
もちろん、仕事しかない生活もありえないですし、色んな生活の場面で、その中でのコミュニケーションも色々ありますけど、社会生活を営む上で、自己主張だけを行うわけには行かないのです、当然ながら。
で、ネットは、顔は見えないとか、落書きみたいなものだと批判される事も多いですけど、落書きの何がいけないのかは、よく例に挙がる無責任な他人への評価批難や悪意だけの主張が大きいと思います。これは、直感的にも発信者の顔が見えない場合、気持ち悪くて嫌だと思うのです。ただ、ネットが無い時代にも、事件の被害者に見知らぬ人から被害者に電話する奴がいたりだとか、出し主の分からない手紙が届いたりだとか、嫌なケースは沢山あったりするわけですよ。電話や手紙も、出し主を特定するのは意外と難しいと思います。匿名チラシだとか、ネットでなくても匿名の悪意ある情報発信手段って沢山あったと思うし、そういう方法は、記憶にとどめておいたほうがいいと思うんですよね、あまりにネット等情報技術の発達成果になれると、一見原始的な方法に対抗できなくなる気がする。って、あんまり本題に関係ないですね。
で、自分の話に戻すと、当然悪意のある発信もするつもりもないし(結果として、そうとられることもあるだろうけれども)、だらだらと文章をエントリーして、自分の痕跡を残したいから、とブログ続ける理由は単純な動機なんではないか、と最近思うようになりました。読んでいる人は、もう、本当にいないんですけど、このブログ。未だに、先月書いたスローセックスの書評でたどってきた人が一番多いですよ。ただ、どっかのサーバーに自分の関わった文章が、残っている、自己満足なんですけど、そういう痕跡が残ったという感覚しかないわけです。それを極稀に誰かがよんで、一瞬菜に言ってるんだコイツ、と思ってくれれば、大成功ですよ。あと、事件や出来事について感想を残せば、何となく歴史の証言者みたいな感覚がアジわえるわけですよ。ここは難しくて、事件や出来事の向こうには、血の通った人間がいるので、ネットの文字だけの情報だけが存在するわけではなくて、そういうのも含めて、自分の意見や感想を書く意味があるハズなのですけど、逆に、感想を書いている自分に、文字の向こうに、もしかすると、リアルな人がいるんだと、何かの拍子で思ってもらえれば勝ちです。

っと、気づけば何を書いてるんだか、現実の作業に戻ります。