作画アニメ「ねらわれた学園」

作画アニメねらわれた学園

作画マニアと呼ばれる人たちがいる。日本の商業アニメーションの表現の中で特に作画の凄さにこだわる人たちととりあえず考えてYouTubeなどに上がっている作画マッドを見れば、その嗜好が判るだろう。想像するに、アニメーションは動いてこそ素晴らしい。よくぞこんな大変な場面を描き切った。自然な動きに見えるがアニメーションでこれを描くのは難しいんだ。そういった場面を、多くは作画を担当したアニメーターをキーに、選んで編集している。

こうした作画マッドを見るたびに技量に驚くことが、しばしばある。アニメーションにおける演技は現在の日本の商業アニメーションであれば、主にアニメーターの作画が担っている。どんな動きになるのか設計し描く。キャラクターの表情や動作から我々は、その心情や状況を読み取っていくのだ。もちろん音響の役割も否定出来ないが日本ではアフレコによる録音が一般的で、まず登場するキャラクターの演技をつけるのは、動きを設計するアニメーターだろう。作画による演技はアニメーションの花といってよかろう。

とはいえ、その演技をうざく感じる瞬間がある。演技過剰と感じるものがある。まれに作品の中で明らかに浮き上がった作画〜例えば日常シーンなのに、その部分だけ凄すぎて、アクションシーンにも見えてしまう〜もあり「アニメーターの使いどころ」というものを考えてしまうこともある。作画が浮いてしまう理由はなんだろう? おろらく演出意図と作画で表現している動きがかみ合わない、演出意図や作品の文脈以上に演技させてしまう、などといった事があげられるだろう。

実は、アニメ映画「ねらわれた学園」を観たときに最初に思ったのは「演技過剰」であった。登場するキャラクターの動きは大げさで、身振り手振りも大きく描かれている。なんだか、キャラクターの動きが浮いているな。そう思った。しかし、それが狙いではないかと、キャラクターの性格や人間関係を把握しているうちに思おうようになった。言葉に出来ない想いをお互いに抱きあう登場人物たち。彼・彼女らの思いは大げさな身振りに知らず知らずあふれているのではないか。

そして、以下の二つの事でそれが演出意図であると確信した。一つは、演劇に関するシークエンスである。主要登場人物は演劇の意味について話し合う。それに何の意味があるのかと問う。作り手は演技について自覚的に映像を作っているという気づきがある。そして作品のテーマの一つである「人と人が分かり合うとはどういう事か」。それがテーマであるとしたとき、登場人物の関係が変化し、互いに「分かり合う」関係になるにつれて「過剰」な演技は姿を変えていく。クライマックスではむしろ大げさ・大きな動きを抑えた演技で、登場人物の心情に寄り添っている。以上の事から作画の「演技過剰」は演出の意図に沿ってコントロールされたものだったのだと思う。

もちろん、「ねらわれた学園」の作画レベルは「破たんしていない」、「整っている」という意味でも劇場作品だけあってテレビアニメに比べれば高いといっていいだろう。それだけでも見る価値はある。作画だけを取り出してすごいと驚くのもアニメの作画を見る楽しみである。

しかし、手堅く演出の意図を作画がくみ取り実現しているというプロセスと結果を想像しながら見るのも作画を見る楽しみであろう。そうした意味では「ねらわれた学園」スゴイ「作画アニメ」という事も出来るのではないだろうか。