アニメ ねらわれた学園 感想

ねらわれた学園」は一見ウソ臭い作品である。
まず超能力を持つ若者を探すためにやってくる超能力未来人なんていう基本設定自体が胡散臭い。
またウソ臭さを倍増させているのは、ヒロインの動作だ。飛び跳ね回る大げさな演技はもちろん、特に片思いの主人公への暴行は度を越しており、「おいおい主人公の身体大丈夫なのかコレ!?」と画面にツッコミを入れずにはいられません!
それ以上に、この映画で描かれている映像そのものがウソ臭い。何故なら美しすぎるから。映画の画面は常に光で包まれている。こんな美しい世界どこにもないよ!
しかし、アニメ映画である以上、ウソなのは当然である。だって全て作りものの世界なのだから。
とはいえ、問題なのは、どんな風にウソをつくのか、何故そんなウソをついたのか、だろう。
まず未来人。彼はある任務を帯びて現代にやって来る。しかし多少変わり者(に見える)とはいえ、同じ人間だと言う事がさらりと描かれている。例えば音楽を通じてクラスの女子とも心を交流させたり。未来人は超能力者でテレパシーを使うけれど、超能力を介在させずに友と心を触れ合わせ、手をつなぐ。任務と友情や恋愛のはざまで苦悩する中学生に過ぎない。ここで描かれる未来人像は我々と異質な種族でも、未来人だからと無用に高圧的にふるまう者でもない。敢えて言えば未来から来た留学生とでも言う風に描かれている。未来人は様々な事を学び、未来へ帰っていく存在なのだ。
またヒロインの行動。彼女は超能力の才能は全くない普通の人間であるが身体能力が高い。実は彼女は「恋」をしていて、それが飛び跳ね回り主人公を殴る蹴るといった彼女の行動に結びついているのである。身体の動き自体が彼女の感情の表現なのである。だから、彼女の動きが大げさなのは、気持ちを伝えたいとあふれ出る彼女の感情の強さなのである。その証拠に彼女が「ぶっちゃけ」てしまった後は、そうした大げさな身振りは少なくなる。テレパシーでも言葉でもなくても、人は動作だけでこんなにも、自分の感情を表現しているものなのだと。
そして、光である。この映画では、何処からか光が差し込んでいる。例え夜のシーンであっても光源があり光が生まれている。これは一体なんなのだろう? 先ほど未来人とヒロインについて触れた時に述べたように、この映画では様々な事に悩む中学生が描かれている。それは彼らの一瞬一瞬にしか存在しない光の彩りである。だとすれば、この光は青春の輝きなのではないか。そして、この映画を観る者は好むと好まざるに関わらず強制的に青春の光を浴びせられる事になる。
このように、いくつも存在する「ねらわれた学園」のウソ臭さだが、そのウソのつき方が洗練されており、つかれたウソにも理由がある。上手なウソに騙されたい諸兄は観るとよいだろう(これはウソじゃありませんから!)。