悪と異端者

悪と異端者 (中公文庫)

悪と異端者 (中公文庫)

筒井康隆のエッセイ集。
死刑囚であった永山則夫の入会を巡り日本文芸家協会から脱退する下り等、非常に面白かった。

「自分だって人を殺すかもしれないという認識や想像力のないものが小説を書いてはいけない」という発言が報道されたため、当然のことだが「しかし殺人はいかん」「おまえは殺人を認めるのか」という多くの声があった。その「常識」に対して「その常識がいかんのだ」と反論する気はない。常識があるからこそ、常識以前の人間精神の混沌を書いてその本質に迫ろうとする小説もまた、存在できるのだ。娯楽的な小説を書く作家も、奇想天外な童話を子どもに語る者も、そもそもは善悪や常識以前のどろどろした人間精神の深い奥を垣間見させる能力が必要とされていた。だからこそ子供ですら人間というものの秘密や不思議さに目を見張り、固唾(かたず)を呑んで聞き入ったのではなかったか。常識だけを基礎にした小説がいかに価値のないものかは言うまでもない。

僕が小説などのフィクションを読んで面白いと思うのは、作品のなかで、自分の生きてきた環境では出合うことの無い価値観や、出会っていても気付かなかった人間精神のどろどろした部分に出会えるから、というのが大きい。
具体例は皆がそれなりに持っていることと思う。



ところで、アンパンマンという作品がある。ボクはこの本のタイトルを読んで、アンパンマンを思い浮かべた。子供向けの安心して見せられるアニメの代表の様に言われているが、僕が惹かれるのは、アンパンマンの自己犠牲精神の奥に見え隠れする不思議なまでのディスコミュニケーションである。彼は自分の顔であるアンパンをお腹が空いた人に食べさせることを無上の喜びとしているが、それ以上のかかわりを避けているように思えるときが有る。ジャムおじさんやバタコさんが、様々な登場人物に会いに行き、そこでバイキンマンに邪魔されるという展開が多いのだが、そこでアンパンマンが言う台詞は決まって、
「じゃあボクはパトロールに行って来ます」
である。なぜ、彼は一緒に会いに行かないのだろうか。よくOPテーマの歌詞にある”愛と勇気だけが友達”というフレーズが揶揄の対象になるが、実際にアニメ作中のアンパンマンの行動を見ていても、まさに愛と勇気だけを友達だと信じているように思える。カレーパンマンしょくぱんまんメロンパンナといったほかの登場人物とも、そこは一線が引かれているように思える。アンパンマンカレーパンマンのように、カレーを振る舞ったりはしない。しょくぱんまんの様にパンをデリバリーしない。メロンパンナのようにロールパンナとの関係を築こうとするそぶりも無い。ジャムおじさんの様に生産活動にも関わらず、ただひたすら、パトロールに励む。みんなアンパンマンを尊敬はしても、友達としてつきあっているような人物は見当たらない。お腹が空いて困っている人を探して食べさせるという行為は、必ずしも生活に密着した活動ではなく、とても理念的な行為である。これは作者のある種の人間不信の表れなのではないか。戦争体験世代の戦中から戦後にかけての価値観の変化を冷ややかに見つめる視線がアンパンマンに投影されているのではないか。あの作品世界では、ばいきんまんは社会の外部からやってきた”悪”である。そしてパトロールという最小限の手段でしか、社会とかかわりを持たないアンパンマンを眺めていると、アンパンマンは社会の中の”異端者”であると思えてくる。アンパンマンは、元々異形の存在である。空から降って来た星がアンパンに宿ったのが彼であり、外部からやってきたという点ではばいきんまんと共通した出自である。彼は社会とのシガラミを捨て愛と勇気だけを信じて生きている、世捨て人のような存在なのではないだろうか。やなせたかしの関わったアニメ作品は、「チリンの鈴」のように、単純な友愛といったテーマにとどまらない、遣る瀬無い結末で終わるものが多い。チリンは狼の元で修行し、羊とも狼とも言えぬ、孤立した存在と成り果ててしまう。復讐のために変わり果てたチリンと、アンパンマンとの距離は、一瞬遠く離れたものと見えるけれど、実はかなり近い存在なのではないだろうか。チリンはアンパンマンの陰の部分を色濃く増幅したかのようなキャラクターに見える。違う点があるとすれば、チリンは復讐の向こうに何も目指すものが無いのに対して、アンパンマンには、自分の顔を食べさせるという目的が与えられていることである。アンパンマンの存在は、とてもメタなものだと思う。ジャムおじさんしょくぱんまんの様に、パンを通じて社会と関わるキャラクターたちは、常識を基礎にした存在で、そこに、アンパンマンという常識を超えた存在がいることが、あの世界の面白さのひとつだと思うのだけれど。

閑話休題

法といえど、個人の精神を律することはできない。だからこそ永山則夫は小説を書き、発表し、法もそれを許している。法が許しているものを、なぜ文芸家協会は拒否するのか。

こうした拒否が一協会の拒否にとどまっていれば、いいのだけれど、最近は、法自体が許してくれなくなりそうな状況が生まれそうな雰囲気。