●○無限地獄4

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はあ、日曜だというのに・・・。
◆何もすすんでねー。先日も書いた様に、来週にはコミケなのですよ!でも原稿が進まない事といったら。俺は新刊出せるのですかね?

◆AAAって誰だー?
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1012604.html
http://www.j-cast.com/2007/08/02009972.html
彼らがやった行為はともかく、AAAという人が何者なのか知らなかった自分がイヤになった。人というかグループ?自分は世知に疎いのです。注意力散漫なのです。

Climax Jump 仮面ライダー電王 主題歌

Climax Jump 仮面ライダー電王 主題歌



京極夏彦氏の鬼太郎話
http://www.kitaro-dvd.com/80s/special/index.html
第一期/第二期→第三期の変化はストーリー重視からキャラクター重視への変化であるという理解でよいのだろうか。この時にキャラクターとして確立したからこそ、鬼太郎は延命したのだろうか。とりあえず、今日の鬼太郎見逃してしまったので、何も書けない。


(以下書きかけ)
◆先週のアレ・オタクメディアのSとMとか成人向漫画のアレとか
http://funuke01.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_5901.html
先週エントリーした日記にいつの間にか上記の様な意見を頂いていてですね、特に自分と意見が違うとかいうこともないので、反論することもないのですけど、折角だから幾つか思ったことを書き散らします。

リンク先でも書いているように美少女漫画にSM的要素を見よう見真似で取り入れていただけの作品は、実際かなりあったと思います。具体的な例としてあげれば、SMのファクターの一つに緊縛がありますよね。縄やロープで身体を拘束する技術ですね。ロープアートとかしゃれた言い方もありますけど。SM的な作品で緊縛を描写している漫画は沢山あるわけです。ただ最近でも、いい加減な緊縛描写はかなり多く、どう考えても縄(またはロープ)は、こういう風に結べないだろっ!という様な縛り描写とか少なくないのですよね。拘束されていることを記号的に表現すれば充分だという意見もあるとは思いますけれど、本当のマニアなら描き込んでしまうんじゃないでしょうか、きっちりと。

自分が最近読んだ作家では、井上よしひさ氏とか本当に緊縛好きなんじゃないかと思うんですけど(彼はむしろ身体が無理な体勢に捻じ曲がる様子にエロティシズムを感じていて、その道具としての緊縛のような気がもしますが)、縄の描写にウソが少ないのです。多分、好きな描写なら手を抜かない作家は多いのではないかと思います。同人誌なども含め書き込んでいる作家は少なくないなと。

ただ、最近の状況で思いつくのは、80年代に比べれば、現在はSM的なメディアがありふれたモノになった気がします。だからエロメディアを漁っていたらSM的なモノに出くわしていて何となくSM的素養があるとか、SMの資料も集めやすくなっている状況はあると思います。
DVDなんか安くなりましたし。いまだSM系のDVDは高いものも多いようですが、それでも一万円以下で、普通にエロビデオが2万円程度していた時代から考えると安くなったと思います。またSM倶楽部の業態も変わっていて、80年代に比べれば、はるかに行きやすくなっているでしょう。値段も、かつてはSM倶楽部専売だったイメージプレイが、イメクラに分化した分、競争相手が多くなった為か、よほどハードなモノでなければ低下傾向にあるみたいですけど。
資料として見るにしろ実践するにしろコストが下がった分、見よう見まねのレベルは上がっていておかしくないでしょうね。

今思い出したのですが、暗藻ナイト氏のコミック・マゾとか、明らかに本気っぽいですよね。聞いた話ですが、頼まれてもいない雑誌にSMイラストを送ってくるとか来ないとか、本当にSM好きなんだろうなと。

オタク系SM文脈と伝統的SM文脈(こういう言い方が適切なのかは自身がないのですが)が、ある程度乖離しているという事実は自分もそう思います。
ではオタク的な文脈が伝統的な文脈と何故ずれるのか考えてみると、コレは自分が以前思いついただけの意見なのですけど、オタク的な文脈の作家さんはアニパロを通過する事が多いからでは?と思っています。元々実在しない存在のアニメキャラを使っての二次創作がファンタジー度を高めているのかも?と何となく思っているのですが。
SMじゃなくても、例えば改造系や、身体巨大化だとか(バストや性器を巨大化させたりするアレ)やフタナリ系だとか、過剰な装飾にこだわる表現だとか、そのハイブリッドは、現実的なエロを基板にするのではなくて(同様のセクシャリティーが現実にあったとしても)、ファンタジーを肥大化させたものではないでしょうか。ここら辺、作家さんの作風にもよるんでしょうけど。
過剰な表現といえば、自分の好みで言えば、ぐら乳頭氏なんか、現実的な基板は全くなくてエロファンタジーだけで描いているような気がしますけど、どうなんでしょう。
あと、最近読んだのですが、リンク先では、伝統的なSM文脈つながりと言われている、三和フラミンゴの、しのざき嶺氏のBlueBerryという作品は、読んでいて確かに本格的なSM文脈の薫りがしますし主人公の落ちっぷりがMっぽいと思います。また題材も女装プレイ・コスプレ・性転換・調教と妙なリアルさもあります。ただ、考えれば、これらの題材が一連のストーリーとして作品にまとまると、むしろファンタジーの匂いがしてくるのは、俺だけでしょうか?
成人向漫画という世界で、オタク系ともなんともつかない世界が出来上がりつつあるのではないか?
・・・調子に乗って書いている割には、なんか、自分の成人向漫画に関する化けの皮がハズレそうなので、この辺りで置いておいて。

返答になってないですね、全然。

実は、先週のにじいきの公開収録を見に行く前に、手元の本田透やアニメ会の関連文献をある程度予習的に目を通していたのです。実は昨日何故今頃、メカビVol.1の記事をああいう形で書いたのかというのも、ただ最近読み返していたからという訳なのです。それで

二次元へいきまっしょい!

二次元へいきまっしょい!

も読み返していてですね、発行からたった一年でココまで良い意味で内容が「ああもう何もかもが懐かしい」状態になっているのは、最近のオタク文化代謝の早さを物語る訳ではないかと驚きです。もう暫くすれば更に熟成して著者の考えからは別の視点で読んで楽しめる本になりそうなのです(もっとも某アンティークドールwの描写や、サンクリの描写等々のように当時の視点からみても変なモノは沢山含まれておりツッコミ所満載なのですが例えば92ページ=アンテナ4本くらいで自慢するな!本物のTV電波受信系のマニアが鼻で笑いますヨ!でもアニメ会とサンクリ準備会の関係だとか、きっとプロの方は色々と気を使って少々無理な設定でも書かねばならない事情があるのかもしれませんネ、大変ですねオタク業界も・・・と勝手に妄想)。ところでにじいき本を読んでいて思ったのですが、三平×2氏は唐沢俊一の本とか読んでそうですよね!ガラダマ天国107ページのアレをそのまま、にじいき本で書いていたりとか、あと、とんでも本関連とか好きだとネットで書いてましたし。


・・・あ、また全然違う方向に行ってしまったので、リンク先ブログへのお返しの話に戻ります。

エゴマゾという言葉を使ったのは、上記の様に本田氏関係の文章をまとめて読んでいて感じたものがあったのです。


にじいきの文脈では、痛いのヤダ!でもオンナノコには構われたい!というのは問題ナッシングです。例えばにじいき本ではラノベの基本といって女性キャラに「基本は『男尊女卑』なのよーっ!(略)ラノベ世界の中心は『女の子』なのっ!男はみんな、女の子の下僕なのっ!」という台詞があったり、三才ブックス現代視覚文化研究

ゲームラボ特別編集 現代視覚文化研究

ゲームラボ特別編集 現代視覚文化研究

三才ブックスの斎藤サンという人はかなりのオタクらしい」とロフトプラスワンの客席でどうも業界人らしき人が語っているのを聞いたことがある(実話)その斎藤さんをモデルにした斎藤某というキャラと本田氏をモデルにしたと思われる本田某によるラノベ講座で、「下僕ハーレム」というモデルを提唱していて、その実践としては家畜人ヤプーラノベ化すればいいのではないかという結論(オチは江川達也がマンガ化してるー!でした)なのですが、これって、痛いのイヤだ!でも女の子にいじめられたい!そのものではないかと。「下僕ハーレム」とは、童貞主人公は人間以下の存在に堕ちてヒロインやその他の女性に支配され落ちぶれデモちょっと活躍してご主人様であるヒロインにご褒美もらえますという、無視されるよりも、虫以下の存在でもいいから女の子に構われたいデモちょっとは優しくして、というある意味Mっ気に溢れた夢のような世界観(でいいんだよな・・・?)。先日のライブの発言と矛盾もしてませんし、別にこれが”本当のMじゃねえよ”と声高らかに主張もしません。そういう妄想に浸れて幸せになれるのであれば、それで救われる人がいるなら、凄く意味のある妄想モデルだと思えます。


で、別に否定はしないんですが、俺が違和感を感じたのは、トークライブでも、この三才ブックスラノベ講座でも、この具体例というか基板になっているのが、ゼロの使い魔のルイズと才人の関係らしいのです。
え?
えー!?
ここからは俺の思い入れだけの世界かもしれないのですが、ゼロの使い魔の才人って、堕ちてないデショ??!主体的な意思を持って行動してませんか?そういう主人公だから小学生にもゼロの使い魔は支持されると思うんですよ。そして、あの物語は、主体的な才人なしには成り立たないわけです。
うーん、別にゼロの使い魔を、別の読み方(異読?)で楽しむのは問題ないと思うんです。萌え妄想の燃料として読むのはある意味ラノベの楽しい読み方ですよ!一度市場に出たら、作者の意図なんか無視してどう読んでもいいと思うのです。で、多分こういう姿勢をはっきりと明言し打ち出したのが、アニメ会のスタイルの革新的なところ(せれまでにもなかったかといえばいないわけではないけど、そういうスタイルでライブを続けているのには革新性があると思う)かもしれません。
で、自分の考え方が正しければ、ルイズ/才人にそういう関係を読み取っている彼らの読み方はなんなのであろうと思ったのが感じた違和感だったのですよ。
最近作品はストーリーではなくキャラクターを消費しているだけだと言われていますが、こういう読み方だと、キャラクターすら見ていないわけです。ただ、そこから自由に自分の快楽原則に則ったシチュエーションだけを読み取るという、そんな作品の消費の仕方なんですね、Mの文脈で、では、他に適切な表現が他に見当たらないから、エゴマゾでいいやと、書いてしまったのです。
しかも、先日機会があって20代のアニメ好きな人と話をしたのですが、彼も作品のシチュエーションやキャラクター性をまったく見ないで、自分の快楽原則に則ってシチュエーションを読み取るような見方もできるんだと。
個人的には凄く驚いたわけです。こういう読み方が特殊なわけではないんだと。
もしかすると、一定の層には当然の読み方なんでしょうか?
(以下続くか続かないか)