■映画版「天元突破グレンラガン紅蓮編」

■映画版天元突破グレンラガン紅蓮編
昨日も書いた感想だが、内容がぐっちゃぐちゃだったので、書き直してみる。

この映画は、昨年放送されたテレビアニメ作品天元突破グレンラガンの映画版で、基本的に前半部分をダイジェストにしたもの。

見所は、映画版ならでは音響、そして映画の最初と最後の新作部分。

映画館で見るわけですから、テレビ版に負けるはずはないですよ、音響面で。この部分は、映画館で観るという行為の緊張感とも合わさって素晴らしい。

音響だけでなく、大画面。単純に大きいことはいいことです。ヨーコのおっぱいも、テレビ版に比べて数十倍にぼよよーん! なんとエロい。こういうのをエロいと感じる自分が何となく好き(いや、正確には、そういう風に飼いならされているわけですが! アニメ絵と性欲が、何年もかけて、繋がる回路が脳内に出来上がっていますよ)。

ただ、運の悪いことに、上映開始から、少しして入館してきた別の客が、俺の目の前に座って、もぞもそし始めた点です。ああもう、遅れてきたのなら、せめて後ろの方で座ってくれよ! 気が散る。

ダイジェスト部分は、こんなものだろうか。旅の仲間が増えていく過程が、聞くからにお洒落っぽい曲をBGMに描かれていていました。音楽に疎い自分は、こういう感じで処理されると、製作者から「ダイジェストだから出会いははしょってしまったけど、オシャレな曲で相殺してるから、これもアリだろ?」といわれているみたいで、イヤなんだ。ダメと言っているわけじゃなく、俺は、こういう処理の仕方嫌〜い。これならナレーションで無理矢理進行された方が、まだいいかも。こういうストーリーをあらかじめ知らないと辛い部分がテレビ版を知らない人には敷居が高くなってます。俺は観てたから問題ないけど。そして、テレビ版を見ていない人は、こんな映画観ないし。同様にエンディングが如何にもオサレ格好良い感じで、イヤだった。センスの良さが、そのまま観ている快感にはならなかったのです、自分の場合。


で、問題の新作部分についてです。
後半の新作部分が、俺にとってはツボに入らなかった、むしろ、なんだコリャ?と感じる仕上がりだった。

導入部分の新作は、テレビ版の展開を知っている人には、そして、映画版で全体を見渡すときには、非常に出来がいいと思いました。テーマじゃないけど、ナレーションは、この後の登場人物の行く末を予感させるものでしたし。あの戦いがあれで。まあ、今後の展開は映画を見る人は殆ど知っていると思うのですが、テレビ版そのままの始まりに比べて、心構えが違ってきますよね。なにより格好いい。

後半の新作部分は、非常に面白いです。
ネタバレになるかも知れないですけど気にしないで書きますが、カミナが死んでダメになっているシモンがニアに救われるまでの展開が新作部分ではラストの戦いに直結していて、これが「燃える」んです。しかも、相手は四天王−1+1がいっぺんに総力戦を仕掛けてくるという強力かつ圧倒的な物量の敵。でも、シモンはカミナの死に打ちのめされて役に立たない、一体どうやって闘うのか。こういうシチュエーションって心踊りませんか? シモンの救済と四天王撃破を新作部分で熱く、かつ、コンパクトにまとめており、画面と心の大部分が一体化してしまいましたよ! 俺が常識人じゃなかったら(はい?)、キャラクターと一緒に叫んでいたに違いない。

でもね、心の一部が、明らかに冷めているんです。醒めてもいる。ノリつつノレないというか。
映画を観終わったあと。昨日も書きましたが、四天王との戦いを各エピソードで積み上げていたテレビ版の方が、面白くて良い展開だと俺は思ったのもあります。正直、乱暴だという印象が強かったです。
でも、醒めていた別の理由は、上記の「燃える」はずの展開を支えていたギミック部分か? 特に。四天王の合体、そして、ピンチに立ち上がったシモンを支える仲間達一同の叫びを上げるシーン、そして合体。

なんて熱い展開!/なんだコリャ・・・?

テンションが上がる自分を遠くから見ている醒めている別の自分。

テレビ版の最終回に感じていた違和感を、また覚えた。よく言えば、最終回並みに燃える展開なのですあけれど、素直にあの最終回にノレなかった理由が、なんとなく見えてきました。
今回の映画版もそうなんですけど、こういうのを見せれば、この作品を観ている人は面白いんだろっ?というメッセージを素直に受け取れない自分。

・・・くどい。くどいんですよ。これはね、きっと「燃える」シチュエーションというのが、どうしても何処かで見たようなものであったり、定番化している現在においては、アニメの作り手が付加価値として提示出来る手段が、シチュエーション+過剰な演出や感情への揺さぶりしか残されていないからだと思うのですよね。
グレンラガンでは今回の新作部分やテレビ版の最終回で、そういう作られたくどさが、透けて見えるんですよ、それが、俺にはイヤだった。

何度も言うようですが、自分がいやなだけですから。なんというか、本当にグレンラガンが大好きな人は、映画として見直せるだけで、感極まってしまいそうな出来栄えだったと思うのですよ。

では、俺が、グレンラガンという作品が、そんなに好きじゃなかったということなのか。

そうでもなくて。好きですよ、でも、やはり、グレンラガンの部分には完全にノレなかったんですよね。聞いた話によれば、グレンラガンは構成上、各時代のロボットアニメをなぞっているそうで、今回の紅蓮編が、〜80年代アニメを意識していた部分なのでしょうか。テレビ版では、数年後のうつ展開が90年代アニメ(というかエヴァエヴァフォロワー)、最終決戦で、まさに00年代のアニメを見せてやる的な意図で展開されているということでしたが、まさに、グレンラガンの最終回は、00年代のアニメ状況なんだと思います。

既に80年代までに、各要素が出尽くし、80年代的なものを反復する90年代。セカイ系とか、細かいところでは色々あるんでしょうが、全てをやりつくした後に残る方法は、反復されるシチュエーションを、如何に過剰に、如何に生の感情にぶつけるか、というものだったのかという感想があります。

グレンラガンの最終回って、スケールが大きくなって、キャラクターの死だとか、ヒロインを取り戻すとか、
熱い、泣ける、という形で語れる要素が詰め込まれて、しかも無理なく展開して大団円じゃないですか。

あれは、傑作だと思った。

もちろん、完成度は高いので、あるいみ目新しさがあるし、作品セカイに没入していれば、こんなに面白いものはないんですよ、ただ、新しいものはなくて、そこにあるのは、組み合わせによる他の作品との差異だけなんでは。

”祭り”ですよね。

盛り上がれるし楽しいし。
でも、観ているうちに、終わった後の、寂しさを予め、予感してしまう、そんな気持ちが取り除けない。
こういう気持ちが大きくなって、いつか自分はアニメを観るのを止めるのだろう。

そんな、俺のメランコリックなアレはおいても、演出がくどいだけで、結局テレビ版にくらべて、乱暴な作りという印象もあり、ちょっとコレをもって「新作部分がすばらしいから、見る価値ありだよ」といえんるのか、という印象は残った。

と、気づいたら、昨日以上にグチャグチャですよ。ああ、好きなものを貶しつつ愛するという気持ちが伝わらなかったらどうしよう?

サイゴに、昨日と同じですが、中島かずき氏には、エロいシーンをもっと書いていただきたい。とお願いして終わります。ニアのパンチラ(いやモロですが)や、ヨーコのブラなし、といった意味ではなく、アディーネ的なエロさの方向で。

二作目も観るよ。