「思想地図」Vol.1

今読んでいるんですが。

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

公募論文(正確には別のから引っ張ってきているけど)の、
「キャラクターが、見ている」
が今までに読んだ中では一番面白い。筆者が今自分の好きなモノを必死で語ろうとしている様子が読み取れて。やはり自分が好きなものが、新しくて価値のあるものなのだと、人は主張したいものなのだと強く感じられた。その主張の道具としてデータベース論を使っていて、これなら編集者側の人は掲載したいと思うだろうなと。

その論文の中では、2000年代のアニメなどを中心に触れており、あずまんが大王ぱにぽに、また京都アニメーションの作品、クラナドAIRハルヒの主人公の出会いシーンを例に挙げています。セカイ系の構造を空間化すること「キャラクターに見られた空間を描く」「キャラクターの視線の前と後ろで、空間が二分割され」「背後は」「データベース的な空間である」「私たちはキャラクターの視線が向けられた空間にこそ現前性を感ていじる」「キャラクターに見られることによってアクチュアルになる空間を見ているので」と論じています。ここで視線を向けているキャラクターは自律化したキャラクターであり、自律化したキャラクターとデータベースを共有化され、その前提で作品が生産・消費されるのだという主張。それで、MADムービーが消費されるのも、キャラクターが自律化しているのが前提として受け入れられているからなのだそうです。らき☆すたのらっきーちゃんねるのアレなど、らき☆すたを見るのは視聴者にとってはYouTubeやニコニコを視聴するのと似ているのだそうだ。読んでいて、非常に刺激的だった。2000年以降のアニメ表現について語るのなら、読んで損は無いと思う。ここで述べられているのは、ある意味、一定層の視聴者の感覚なのだと思う。


・備忘メモ:

さよなら絶望先生(13) (講談社コミックス)

さよなら絶望先生(13) (講談社コミックス)

P32、P112他

・備忘メモ:
先日機会があって観る事の出来たあるアニメですが、1998年製作の木上益治監督のもので、主人公かずしクンが銀座でヒロインと出会うまでのシーンで、二人が出会う直前、かずしクンの顔のアップからカメラが引かれて銀座の背景が映し出されるシーンでは、きちんとしたロケハンの成果か見まごうことなく銀座が描写されていた。普段アニメなどに触れない人にも、この作品が間違いなく東京を舞台にしていることを理解させる効果があったと思う。そうした背景の描写が作品のテーマと結びつき、作品セカイが現実の世界とリンクしていることが、しっかり表現できていると思った。

・備忘メモ:
先日観たあるマッド作品のいくつかは、あるアニメーションのサブタイトルをいじって遊んでいるものだった。文字を入れ替えて遊んだり。あるいはサブタイトルの言葉と関連する画像を組み合わせたり。90年代〜最近のものまでいろいろあった。元作品を知らなくても笑えるマッドで、世の中には才能が溢れているものだと感心せざるを得なかった。作り手の人が語っていたのを聞いた事があるが、元ネタや元シーンやキャラクターを知らなくても笑えるのを目指したということだった。その映像だけで理解出来るものがいいのだと。なるほどと思った。画像を組み合わせるという意味ではデータベース論てきなセカイかもしれませんが。