「ゼロ年代批評night」@阿佐ヶ谷ロフトA

先日、2月25日(水曜日)にイベント「ゼロ年代批評night」@阿佐ヶ谷ロフトA へ行きました。

出演者の若さ溢れる良いイベントでしたヨ!

ステージを見ていて勝手に思いついたイベント・サブ・タイトル。

「届け 僕らの思い東さんへ」
「進め! 東ファンクラブ」
「青春! ゼロアカ学園」
「覚えたての言葉を使いたい僕たち」
「私が語りたい、ある理由」
「独り言だと思われてもいいから、私の話を聞いて!」
「大好きッ! 萌え 萌え 東さん」
「東さんに承認されたい僕たち」

まずは、出演者の東氏へのリスペクトが目立つイベントでした。この影響で、今度の夏コミでは、私も、自分の同人誌を東浩紀に贈呈しようと思いました!
これは彼らの東リスペクトを茶化しているのではなくて、特定の誰かに届けようとした表現が普遍性を持つこともありえますし、更に憧れの人へ届けようとする情熱が、強い言葉を生むこともありえると感じるから。例えば柄谷行人なんかも初期には憧れの文芸評論家に向けて書いたんでしょ?(この知識はさっきネットで適当に仕入れました!)
それと、青春というのは、出演者の某エピソードから思いつきました。でも、その出演者は、ブログなどで書いてくれるな、といった反応をしていたので、受けた印象から、上記のようなサブ・タイトルを考えましたよ。

イベント全体に漂う、「結論のなさ」が非常に楽しいイベントだったと思いました。出演者のなかでは藤田直哉と、やずややずやの話し方が楽しかったです。藤田氏は一番空気を読むのがうまいというか、話しなれているという感じがしました。また、坂上氏のキャラの作りが面白かった。ただ、彼らの東リスペクトぶりについ、比較してしまうのだけど、東浩紀は、やはり一級のエンターテイナーなのだな、という印象が強まります。東氏は意識的に人前でのキャラクター作りを行っていて、ロフトプラスワンなどで話すときのキャラクターは確立しているように見えるのですよ、だからたまに出演者としてのキャラクターの奥というか、地というか。かいま見える素の部分が出るときが非常に面白いわけです。だから、他の出演者と共演して、脇役になる場面があるとしても、東浩紀は埋没しないんですよ。今回の出演者のキャラクターは、おそらく地の部分がマダマダ非常に強いように思えました。議論の途中で疑問をぶつけるような場面で、話の腰が折れてしまうこともしばしばありましたが、お互いにキャラクターを把握仕切れていない? からなのかな、とみていて思ったり。
いやー、上から目線の言い方でしょ? でも、オレも来月ロフトプラスワン関係でトークイベントに出ることになって、無茶苦茶緊張しているので、そういう事を色々考えるんですよ! だって、他の出演者の話の腰を折るのはオレの得意技だし!!
だから、色々壇上の話を聞きながら、上から目線的に、シミュレートしちゃうんです、ごめんなさい。

それで、ざっと各部ごとのイベントの感想を書くと、

#第一部
導入。面白く無い訳ではないのですが、文学ブリマの裏話は第一部まるまるかけてやる話なのかなー? ここら辺はまだ出演者にブレーキが掛かっているかんじがしました。

#第二部
ここから、スロットルが色々。出演者がイベントを把握してきた感じがします。会場から飛んだヤジ、”批評の定義って?”には最後までダレも明確に答えず。多分、全員、ノープランでしゃべってますよ! 打ち合わせの時の映像。これが、青春だ。

#第三部
いよいよブレーキが掛からず。会場からの質問にその場で答えるライブ感は、最近のプラスワンではあまり見かけません。ここが、面白かった。そういう意味で、議論に出口のない話が非常に面白い。でも、最後の東氏電話出演は、ちょっとアレだ、正直いらん。つうか、つらい。これなら、ビデオ出演のほうがよかったなー。

問題は、司会が誰だったのか、分かりづらかったことかなあ。坂上氏のブログでは、彼が司会と書かれているんですが、最初に登場した筑井氏は、今回のイベントは自分が仕切ると自己紹介してたし。

会場からの質問は、大雑把に言って、なぜゼロアカ道場という舞台を選んだのか、という点に集中していたように思えます。意見を発表するなら、ブログでもいいのでは、とか、所詮ユリイカで原稿を書きたいだけなのか(ちょっと有名になりたいだけなのでは?)という趣旨だったと思います。それまでの議論とは微妙にずれていますが、ゼロアカという出版社の催しに参加している人たち出演のイベントだから、当然ありえる質問だと思う。自分も、何故同人誌ではダメなのか、と聞こうと思っていました。だって、少なくとも出演者は全員同人誌を作っていたわけで、ゼロアカ道場でなくても、本当に書きたい事があるなら、同人誌でもいいんじゃないかと思ったわけです。

あと、全員に同人誌プレゼント。
コピー誌ですが、ゼロアカに参加した理由は、ここで述べているという整理だったのでしょうか。

でもね、
せっかくのトークイベントなんだから、
ゼロアカという舞台を選んだ理由を、もっと聞きたかった。壇上から。

ところで、
同人誌でも触れている人もいるし、
壇上でも触れられていたんですが、出演者のいう「私」って結局なんだったんですかね。おれあたまわるいからわからないや。
ここからは、自分の独り言ですけど、というかメモとっていないので、ダラダラした感想を述べるだけなんですけど、
「私」って、凄く、あやふやだし、でも語り始めると、色んな事を言える言葉だと思うんですよ。
壇上での「私」って、自由意志を持った主体という意味なのか。今まで生きてきた環境により形成された存在なのか。みたいなことを漠然と思ってみてました。壇上で話をしている人って、「私」についてどういう風に考えているのだろう、とか。誰かが「私」を基準に何かを評価するといっても、その人が自分の自由意志で判断しているわけではない可能性もあって、結局その人が生きてきた時代や地域の制限の中でしか思考出来ていないという事もあるんですよね。ここで歴史性の議論につながるの?
藤田氏のように判断基準が「直感」と言い切ってみたほうが、聞いている人には歯切れがよいんですけど、その直感を支えるものって結局藤田氏にとっての「私」なのか。じゃあ私って、なんなのだろう、とぐるぐるする。
三ツ野氏が語っていた、批評家が世の中のすべてを論じるかジャンル批評家になるかの選択って、そんなの選択する必要なんか本当に生じるの? あるジャンルを論じるには、全体や隣接分野への言及は避けられないんじゃないか。
アニメについて語るだけでも、80年代の作品と00年代の作品では、描かれている内容って違っていて、それはジャンル内の影響だけではなくて、時代性とか世の中の様々なことを語ることになるんですよ、当然。これは、坂上氏が、かつては世の中のことは文学者に聞けというのが現在では違っているという話があったかと思うのですが、これって批評家に求められる役割の話ではなくて、あるジャンルと語る内容を限定しようとしても、世の中の他の事象との関連性について言及することは避けられないのでは、という疑問なのです。これはさっきの「私」の話とも関係しています、きっと。他の様々な事柄に「私」は影響を受けていて、あるいは漠然とした「私」という言葉だけで、何かを語ろうとしても、意味がないんだと思うんですよ、だから、「私」がスキ/キライとか、そういっている事自体が、実は、世の中とか時代に影響された結果だと思うんです。別の時代や地域では、それをスキキライの話として誰も考えていないこともありえるでしょ。
・・・などと、
イベント中も、グダグダと自分の中で、具にも付かない(後で気づいたけど、あえて間違えたまま訂正しないよ!)思考が回っていたので、入場料の元は取った感じですよ。
と、唐突に感想を終えます。
もう、これ以上、感想書くのが面倒だから。

東浩紀の愉快な仲間たちpresents
ゼロ年代批評night」
次世代の批評は俺たちが作る!まったく新しい批評の形を模索する、熱き批評魂を持った若者たちが、批評の未来についてガチバトルを繰り広げます!ザクティ革命の真の意義とは!?ゼロ年代批評の申し子となるのは誰か?批評論壇の新生を目撃するために、次世代の批評家(とウォッチャー)たちよ、阿佐ヶ谷ロフトに集結せよ!
※来場者全員に、会場限定のスペシャル同人誌をプレゼント。
【出演】
坂上秋成(ゼロアカ道場第四次関門通過者/道場破り)
筑井真奈(編集者/ゼロアカ道場第四次関門通過者)
藤田直哉(SF評論家/ゼロアカ道場第三次関門通過者)
三ツ野陽介(ゼロアカ道場第四次関通過者)
やずややずやゼロアカ道場第四次関門通過者)
スペシャルゲスト】
現代思想の第一線で活躍する哲学者、批評家など凄い人たちが多数来場予定。もちろん「あの人」も参加か!?
OPEN18:30 / START19:30
入場料¥1,500(飲食代別)<当日券のみ>

だから阿佐ヶ谷ロフトA だよー! イベント開催地くらい正確に把握してー! ネット検索するときに困るから、俺が。

東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦 (講談社BOX)

東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦 (講談社BOX)

こんな本が出るなら、ゼロアカ同人誌全部買わなきゃ良かったよー!(嘘)